ケルト文化の旅は半分だけ

ボイン渓谷を訪れる 1日ツアー<英語/ダブリン発> by Extreme Ireland
★★☆☆☆
投稿者:なおさん
参加日:2019/02/10
集合地点のモリーマローン像の所に行くと、人がたくさんいる。時間とともにどんどん増える。定刻になったら、バスが大小2台やって来た。大きい方から運転手が降りてきて、ベルファストという。それで納得。別々のツァーが同じ集合時間になっていたのだ。ボイン渓谷行きは、合計9人だった。最低催行人数が7人だったから、ちょっときわどい。運転手兼ガイドが国籍を聞いたら、4人がオランダ人、2人がスイス人、2人がドイツ人、そして僕である。バスに、Celtic Boyne Valley Tour – Ireland’s Ancient East とある。
09:30 Uisneachと書いて、イシュナックと読ませる。本当にケルト語は難しい。何でもここは、地理的にアイルランドのへそに当たる場所で、約1万年前の石器時代人がここで祭祀をやっていたという。しかし、ダブリンに比べるとやたらと寒く、風が冷たく、しかも、見るべき遺跡はさっぱりない。ヴィジターセンターのガイドは情熱を込めて語ってくれるが、常識的に考えてそれを裏付ける考古学的資料があるとは思えず、毎年夏になるとイシュナックの火祭り( Fire Festival)として、音楽と踊りと火のパレードが行われるというが、近世のでっち上げとしか思えない。そして、これはケルト人がアイルランドに到来する以前のことである。なぜ、わざわざツァーに組んだのか、理解に苦しんだ場所である。
11:50 ラフクルーの古墳(LOUGHCREW PASSAGE TOMB)。
紀元前5000年から残るいくつもの古墳。「初期のピラミッドが造られる500年以上も前にケルト人により建てられた石の芸術をより近くで観察してください。」と旅行社の説明にはあるけれど、もちろんこれは嘘である。ケルト人がアイルランドに来たのはせいぜい紀元前600年以降とされているからである。むしろ、イングランドのストーンヘンジと並んで、正体不明の民族による、同時期の巨石文化と考えた方が良い。とにかく、風が冷たく、厳しいのには参ったが、緑の牧草地を延々と昇った先にあった巨大な古墳には感激した。ついでに言えば、英語で古墳は、野球のピッチャーが立っている場所と同じく、マウンド(Mound)ということを知った。
14:30 トリム城TRIM CASTLE
アイルランドで最大規模を誇る城というけれど、日本の城を見慣れた身には至ってこじんまりとしている。なにしろ、中に入って、外壁に沿って一周しても10分ほどしか必要ではないのだ。見学時間は30分予定されていたけれど、20分ほどで早々に引き上げて、余った時間は町を見て回った。
16:05 タラの丘HILL OF TARA
最後がここである。これが見たくて、このツァーに参加したと言って良い。古代ケルト人が王を選出し、戴冠式を執りおこなってきただけでなく、政治・経済・文化・宗教の中心地としてきた、アイルランドの歴史の中で重要な場所である。『風と共に去りぬ』で、スカーレット・オハラが何物にも代えて守ろうとした農場の名がタラというのは、ここから採ったという。ここも結構ハードな丘のぼりであった。
ボイン渓谷には他にもケルト十字架で有名なケルズ、名誉革命でイングランドを追われたジェイムズ2世がアイルランド人を率いてウィリアム3世と激闘を展開し、敗れて、今日までの悲惨な歴史を決定したボインの古戦場などがあるのだが、そういう所は一切行かない。結構楽しかったことは否定しないが、完全に看板に偽りあり、というツァーだった。
タラの丘の麓に立つアイルランドの守護聖人パトリック
イシュナック丘の上で情熱的に語るガイドと、寒さに震える参加者
イシュナックがアイルランドの中心?
タラの丘の麓の墓地にあるケルト十字架の墓
タラの丘の頂上
タラの丘の古墳の玄室の入り口
トリム城のキープ
トリム城の城門
ラフクルーの古墳
ラフクルー古墳の玄室の入り口